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首都圏の想い 2011.3.11【後編】

みなさんこんばんは。




東日本大震災の記憶、【後編】の今日は、




首都圏の想い



をテーマに書き進めていこうと思います。




前回は、3月11日を終え、12日に当時の住まいであった国分寺に帰宅するところまでをお伝えしました。




今日はその続きから。





原発事故


巨大地震と大津波から数日が経ち、首都圏の大部分は思っていた以上に早く復旧し、経済は完璧とは言えないかもしれませんが回っていました。




私の会社は、当時、岩手を中心に東北地方の工場に仕事を多く依頼していたので、そちらの安否確認や、仕事のスケジュール調整に追われました。




幸い、津波の被害を受けた工場はなく、比較的早い段階で仕事を再開してくれた工場もありましたが、岩手県の震度7エリアにあった工場とはなかなか連絡さえつけられずにいました。




そのような中で、まさかの福島原発の爆発が発生して日本中に衝撃が走りました。




この原発事故のニュースを機に、様々な情報が飛び交い、東京でも食料品や生活用品の買いだめなどが起き始めました。




原発事故の詳しい経緯は記憶があいまいだったので、ネットで調べてみたのですが専門用語が多すぎてよく分からなかったのでここでは詳しくは述べません。




ただ、原発事故関連の情報はあまりに多すぎて何を信じていいのか、何が本当なのか、情報の取捨選択がとても難しい状況でした。ましてや被災地で避難所生活を送っていた方々は何が何だか訳が分からない状況にあってもおかしくないくらいだったのではないでしょうか?




しかし、ひとつだけ確実に分かっていたのは、原発事故の影響エリアがここ福島市周辺の方向に延びていた、ということだけでした。




このひとつの情報だけでだいぶ恐怖を感じていたのは確かですね。




友人たち、そして家族は果たして無事でいるのだろうか、と。





計画停電 3.14-3.28


画像参照:Gigazine


首都圏に電力を供給していた東京電力福島原発で大規模な事故が起こってしまったことにより、首都圏では電力不足問題が発生していました。




そして、震災から3日後の3月14日から28日まで計画停電を行うという発表がされました。詳しくは憶えていないのですが、首都圏をいくつかのグループに分けて、時間で区切って停電させるものでした。




日中に会社で停電、夜に自宅で停電、両方とも経験しましたが、例えば信号機とか街灯とかそういったものはどうなっていたのか、会社はどのように対応したのか、詳しいところはあまり憶えていないのが現状ですね。でも、停電エリアでも電車は走っていたのは確かですね。





一週間が経ち、被災地への連絡がつく


3.11から約1週間が経った週末、ようやく福島と連絡がとれました。といっても携帯からではなく、公衆電話から。あの頃はまだ公衆電話が一番通じる時期でした。




とりあえず家族は無事、家も倒壊していないということでひと安心しました。




しかし、小さな子供を持つ同級生らは原発問題でひどく混乱しており、多くの同級生は子供を連れて全国各地へ避難していきました。場合によっては家族で、場合によっては旦那さんだけ残して母と子で。




時を経て、福島に帰ってきた人もいれば、避難先に子供が馴染んでしまいそのまま避難先に住んでいる人もいます。気軽に会える地元の友達がバラバラになってしまいました。





避難所からの一本の電話


福島市近郊の地元友達や親族とは連絡がとれだしたころ、沿岸部、大津波のが発生した沿岸部の街に住むある方から連絡が入りました。




その方は私の学生時代の恩師で体育の先生をしていました。




震災当時、津波の被害を直接受けたエリアの学校に勤務していらっしゃいました。




その学校の体育館が避難所になっており、そこから電話をかけてきてくれたのです。




数年ぶりの連絡でした。




先生は体育の先生ということもあり、もともとのリーダー性もあり、避難所の代表的な役割を果たしておりました。




『必要な物資が全然足りていない。役所もほとんど機能していない。力を貸してほしい』




恩師からの久方ぶりの連絡は、SOSの信号でした。




当時は、NPOなどの活動で役所に大量の物資が送られてきだしていた一方で、今避難所に必要とされているものとにズレが生じていたり、たくさんあった避難所にどのように分配するかなどがなかなか決まらず、ほとんど避難所に届いていない状況だったそうです。




その時、ちょうどよいタイミングで『ヤマト運輸か郵便』どちらかの営業が再開され、一般でも荷物が送れるようになりました。




私は首都圏に住む知人、友人に片っ端からメールを送り、福島県沿岸部の避難所の現状を伝え、今必要とされている物資の寄付を募りました。




土日、新宿駅東口で友人たちが現れるのを朝から晩まで待ちました。




誰が来てくれるのかまったく分からない状況、もしかしたらほとんど集まらないかもしれない不安。





首都圏の想い


心配性な私の不安をよそに、朝から友人たちはひっきりなしに訪れ、避難所に必要ものを持ってきてくれました。中には、その方の友人やご家族なども協力させてほしいとか、会社の同僚の分も持ってきましたと大量に持ってきてくださる方など、予想の100倍くらいの量の支援物資がたった2日間で集まってしまいました。




当然、ひとりでアパートに持ち帰るのは不可能だったので、友人に手伝ってもらいアパートまで運びました。




当時、比較的広めで2人暮らし用のアパートに住んでいましたが、その部屋の大半が支援物資の詰まったダンボールで埋め尽くされるくらいの量になりました。




そして友人たちとダンボールの側面に応援メッセージを書き込み、運送業者に来てもらってすべてを発送しました。




都会の人は冷たいとか、そういった印象を持っている方もいらっしゃるかもしれませんが、あの時は皆、被災地のために何かしたくて、でも何をしていいのか分からなくて悩んでいたのです。

画像参照:ハフポスト (地震で曲がった東京タワーの先端)



そして首都圏の人たちが持ってきてくれた支援物資が福島の沿岸部の避難所に届けられました。




すぐに電話をいただき、何度も何度も感謝の言葉をいただきました。




そしてすぐに避難所からのお礼のお手紙が届き、物資を持ってきてくれた方全員にメールで送信しました。





声は電波に乗って


支援物資を持ってきてくれた友人のひとりに、ラジオ局で働く友人がいました。


画像参照:ameblo



彼は、避難所の先生の対応に感動して、その先生に被災地からラジオ番組に出演して、避難所の生の声や、今必要とされているものなど何でもよいので全国に発信してほしいんだけどお願いしてもらえないだろうかと私に提案してきました。




先生は一つ返事でOKをし、避難所からの生の声が全国に発信されました。




中継が好評だったのか、その後定期的に続けられました。





オーバーワークの報い


震災からおよそ2か月が経過し最低限の状態は何とか脱したくらいの頃、仕事をしながら支援物資を被災地に届ける活動もひと段落した私を、諸刃の剣が襲いかかりました。




あきらかにキャパオーバーのことをしていた私は、双極性障害の悪化を招き、治療を後退させてしまいました。




ですが、この時のオーバーワークに関しては「仕方なかったのかな」と今でも思っています。






最後に


今回は東日本大震災から10年ということで『首都圏から感じた被災地』をテーマに書きました。あの頃の首都圏は、本文でも述べたように『被災地のために何かしたい!でも何をしていいか分からない!』そんな思いを抱いてもんもんとしている方が多かったように思います。




日本全体が、世界全体がむしばまれている今のコロナ禍とは状況が大分違うんだなあと当時を思い出して改めて感じます。




あの時とは違う困難に今人類は直面していますが、力を合わせて乗り越えていきたいですね。





おわり



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