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丹羽真一先生の講演を拝聴して⑷最終章 ∼精神障害とリハビリテーション∼

みなさんこんばんは。


今回のシリーズは第4回目で最終章となります。

1,2,3回目の記事をご覧になりたい方は下記リンクからどうぞ。




【前置き】


1/27㈬ 福島県福島市にあるほりこし心身クリニックにて、福島県立医科大学精神科名誉教授である『丹羽真一先生』の講演を拝聴してきました。



丹羽先生は1972年に東京大学医学部をご卒業され、その後1992年まで東京大学医学部付属病院精神神経科の助手を経て、2012年まで福島県立医科大学医学部附属病院精神医学講座の教授を、また、福島県立医科大学医学部附属病院院長や福島県立医科大学理事などを歴任された福島県の精神医学界もとい日本の精神医学会のレジェンドといっても過言ではない方です。統合失調症の研究、とりわけ、精神疾患死後脳の研究に於いては世界トップレベルの研究をされているそうです。



ご講演のメインテーマは『精神障害のリハビリテーション



行政、医療、福祉、における精神障害者に対するリハビリテーションによるこれまでの歴史及びその効果、また、今後期待される新しいリハビリテーションの在り方、最後に将来の精神科医療の予想絵図をお話ししてくださいました。



とても大事なお話しだったので今回のシリーズは少し長くなってしまうかもしれませんがお付き合いいただけると幸いです。


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最終章 第四回『精神科医療の将来像 ∼イタリア トリエステ市を例に∼


最終回の今回は、先生が以前訪れたこともあるWHOの精神科医療パイロット地区にも指定されている、イタリアのトリエステという都市の精神科医療をご紹介します。




まず、丹羽先生の講義の根幹でもある『入院主体から地域主体』をシンプルにまとめると、


病院・・・急性期の短期入院、退院促進

地域・・・在宅支援、社会復帰施設


このようになります。



それでは、イタリア・トリエステではどのように病院主体から地域主体に移行していったのか、歴史を遡って見てみましょう。

画像参照:フォートラベル 『トリエステ港』 美しい港町


ここで絶対に外せない超重要人物が、イタリアトリエステの精神科医フランコ=バザリアです。



結論から言えば、フランコ=バザリアはイタリアの公的な精神科病院を廃止した人物として歴史に名を残しました。

画像参照:シノドス 『フランコ=バザリア』


彼がどんな人物で『どういった考えのもとで精神科病院を廃止していったのか』そのあたりを解説して参ります。



バザリアは1924年ヴェネツィアで生まれました。その後、パドヴァ大学で精神医学を学び、大学時代はファシズムに反対し友人らとともに活動していました。そして反対運動中に逮捕され半年間拘留されてしまいます。



拘留中に父親の友人である医師に「脳腫瘍」という嘘の診断書を書いてもらい留置所から病院へ送致されましたが、入院生活において自由のない強烈な閉塞感を感じ閉鎖的施設に対して強い険悪感を抱くことになります。



その後、大学を卒業したバザリアは大学に残って助手として精神医学に携わり、患者を『病人』としてではなく『ありのままの人間』として接し、その『生きづらさに焦点』をあてて治療をする手法をとりました。



そういった考え方は当時としては非常に珍しく、同僚からもあまりよく思われていなかったようです。



その後、37歳の時にゴリツィアの精神科病院の院長に就任しました。院長に就任して彼が見たものは、病院とはかけ離れた強制収容所のような光景でした。



患者はモノではない、主体性を持った尊い人間である!



と言って、就任早々に数々の改革を行いました。


鉄格子の廃止

病棟の開放化

拘束衣の廃止

白衣の廃止

医師、看護師、患者による自治集会の実施(患者のコミュニケーション能力の低下は病気の症状ではなくコミュニケーション機会の減少からくるものという考えから実施)



このような改革を進めていたバザリアでしたが、1968年に彼の病院から一時帰宅した男性が妻を殺害してしまうという事件が発生してしまいます。



バザリアはその当時としては新しい思想によって男性の殺人に加担した罪とみなされ裁判にかけられてしまいます。3年後に何とか無罪となった彼でしたが、ゴリツィアの精神科病院を辞任することとなってしまいました。



その後バザリアはアメリカへ留学することになります。留学をするきっかけとなったのが、まず1963年『ケネディ教書(精神病・精神薄弱に関するケネディ大統領教書)』によって『脱施設化』の動きが広まっていたことや、1950年代にマクスウェル=ジョーンズが提唱した『治療共同体』についても学びたいと思ったからでした。


(※治療共同体とは:精神疾患、パーソナリティ障害、薬物依存、ホームレス、女性や児童青年らに対しての長期的な参加型集団アプローチ。 このアプローチは、環境療法の理論をベースとし、さらに集団精神療法を実施するもの)




イタリアに帰国後、アメリカに感銘を受けたバザリアは国境の都市トリエステの県知事ミケーレ=ザネッティと親交を深めました。当時のイタリアは若者の間で社会変革の動きが活発化しており、精神医学会も例外ではありませんでした。



バザリアは拘束ではなく『自由こそ治療!』というスローガンを掲げると、彼に賛同した12人の若き精神科研修医が集まりました。そしてバザリアは県知事ザネッティによってトリエステの精神科病院院長に任命されました。

画像参照:SOWHATの世界旅日記 



バザリアらは入院治療に依存していた精神科医療体制を、地域に精神保健センターを設置することで地域での精神保健体制を整え治療主体を病院から地域に移行させていくものでした。



1974年、バザリアは民主精神医学協会を発足させ、彼の改革はトリエステからイタリア全土に広がっていきました。



当然ながら反対運動も各地で起き、1975年には精神疾患患者が両親を殺害する事件や、公務員試験に何度も失敗した患者が精神科主治医に責任を転嫁して医師を殺害してしまう事件がおきました。



これら残虐な事件の背景にはバザリアの改革運動があるのでは?という考えも当然ながら生まれ、やはり今までのような地域の安全を重視した『収容型の治療が望ましいのでは!?という批判も集まりましたが、WHOがトリエステを『精神医療・精神保健のパイロット地区に指定したことによって批判は収束していきました。



そして1977年、トリエステの精神科病院は閉鎖され、長期収容を強いられていた患者たちは地域へと解放されました。



1978年、180号法(1978年,イタリア精神保健法)通称:バザリア法が制定


・精神科病院の新規開設禁止

・再入院の禁止

・地域精神保健センターが中心の医療体制



地域にはグループホームが建設され、訪問看護や訪問診療などで治療が行われ、患者が働いて行くための労働組合も設立されました。治療に関しては患者の自由意思で行われ、入院が必要な場合は精神保健センターにあるごくわずかなベッドを一時的に利用し、本当に危険な場合や特別な場面においてのみ総合病院のベッドを市長の権限において7日間だけ強制入院ができるとしました。しかし、強制入院のプロセスはかなり複雑な物であったため強制入院の件数は著しく減っていきました。




このような流れを経て、イタリアから精神科病院は姿を消していったのです。




この改革でのデメリットとしては、地域精神保健センターに十分なスタッフを24時間365日体制で配置しなければならないなど、非常に多くの人的資源を要することでした。実際にスタッフからの不満も多々あったようです。



しかしながら、元入院患者たちが地域の中で生き生きと働く姿も多数見受けられるようになり、WHOから『持続可能なモデル』として認定されました。




1980年、フランコ=バザリア、脳腫瘍のため惜しまれつつ死去





1980年に56歳という若さで惜しまれつつ亡くなったバザーリア、精神科治療に大きな一石を投じたと言えますね。「収容・監禁」の治療から『患者主体・地域主体』への大方向転換、今私たち精神疾患者が、未だに世間からの偏見や差別は多少あると言えども、比較的自由で主体的に活動したり働けるのは彼のような先人の存在なくして語れないかもしれませんね。


しかし、まだまだ今のままでは不十分であることは皆さんもご存じだと思います。障害者雇用の観点で見ても選べる職種は極めて狭いですし、給料においても最低賃金水準の会社がほとんどです。そして、賃金が少ないためなどで結婚や出産も難しい状況(精神疾患者の既婚率は約30% ・健常者が約80%・身体障害者が約70%)です。自分一人を養って生きていくので精一杯なのが現状なのかもしれません。


これからは私たち当事者自らがもっと情報を発信し声を上げて社会に自分たちの考え要望を主張していかなければならないんですね。



2018年にやっと精神障害の雇用が義務化となったばかりの日本、



改革はまだ始まったばかりです





丹羽先生は2007年10月にトリエステの精神科医療サービスの視察に行かれ、トリエステ市内に5つある精神保健センターのうちのひとつ『CSMD』を見学されたそうです。CSMDは約55,000人の市民を担当し、1000人弱の患者さんを担当しています。55,000人というと福島県で考えると、二本松市・南相馬市くらいの人口です。


スタッフは医師3名、看護師、心理士、OT、PSWなど約20名が在籍、24時間体制で3交代制。1階には所長室、看護師勤務室、スタッフルーム、マッサージ室、喫煙ルーム、会議室兼集団療法室が、2階には交流室兼食堂、寝室があるそうです。


※画像はトリエステのハントン訪問看護ステーション

画像参照:トピックス:ハントン訪問看護ステーション



また、先生はある患者さんの共同住居を見せて頂いたそうで、そのアパートは団地風の市営アパートで一か所あたり約2∼3名が住んでおられるそうです(3人以上になると施設になってしまう)。仕事のない患者には年金が支給されその中から家賃を支払うようです。トリエステにはこういったアパートがたくさんあるようです。



トリエステのシステムが可能となっている背景とは

⑴精神疾患を持つ人々が地域で処遇されるべきという理念を社会が共有している

⑵公的な医療保障制度が存在している

⑶障がい者に対する経済的支援を行う福祉制度が存在している

⑷自治体が市営アパートの部屋を共同住宅として障がい者に提供する施策がある

⑸障害者雇用制度が実質的に機能している


日本では民間のクリニックが多いので実現は難しい??





最後にフランコ=バザーリアの名言


“万人の中に理性と狂気は存在する。


よって、病者と位置付けるのは医師にとって都合の良い烙印を押すことなのである。


存在しているのは病気ではなく苦悩であり、


そこに寄り添い解決策を見出すことが重要なのである”







ではまた!






参考文献:『精神障害のリハビリテーション』福島県立医科大学・会津医療センター精神医学講座 丹羽真一先生

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